本丸より (18)

<standing edge of nothing>

くも

私は古典落語が好きで、今は亡き桂枝雀師匠の「英語による古典落語」を聞きに、ニューヨークのジャパンソサエティーまで出かけていったこともあった。
英語なのに、十分笑えるその笑いと言葉のセンスに脱帽した。

私が日本語を愛でる理由のひとつは、そこにあるのかもしれない。
ニューヨークと日本を数え切れない程往復している間、機内でずっと「日航名人会」を聞き続けて、成田に付く頃にはすっかり丸覚えしていたこともあった。

だからといって、特別に古典落語に精通しているわけではないし、話の内容は覚えていても、題名が出てこないことが多い。
私が落語で好きなのは、世間話のような「枕」から話が始まり、いつの間にか、落語の世界に引き込まれている、あの流れだ。
そして、最後の「落ち」まで話がつづく。
落語家はその落ちを述べると、すっと立って、舞台を後にする。
その潔さにも惹かれる。

桂枝雀には独特の世界があった。
英語の古典落語の講演後、レセプションでほんの少しだけお会いする時間があったのだが、小柄で、にこにこと愛想がよく、そして、どこか儚げな脆さを同時に抱えていらっしゃるような印象を受けた。
その儚さが後に、自ら命を絶たれることになることに繋がるとは、その時には考えられなかった。

そもそも、落語に限らず、人を笑わせたり、楽しませたり、感動させることができる人達の多くは、それと反比例するような悲しみと孤独感をどこかに抱え込んでいるものかも知れない。

物質的なものでも、環境でもなく、言葉や画像や音楽を巧みに操ることができるにも関わらず、それを伝える術がないような、どうやってそれを昇華していいのかわからないような、そんな孤独を、抱えているものなのかも知れない。

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